賠償と責任編 — 「気の毒」と「けしからん」に法は流されません
賠償の分野は、感情がいちばん強く動く場所です。被害者が気の毒なら救ってあげたいし、ずさんな行政はけしからん。ところが国家賠償法は、その両方向の感情を裏切る割り切りを持っています。「気の毒でも否定」と「けしからんとまでは言えなくても肯定」——両方向の裏切りを、理由ごと並べます。
賠償分野で正義感が誤答を作る場所は、どこに集中しているのでしょうか。
裏切りは両方向から来ます
片方向だけ警戒すると、逆側で刺されます。「かわいそうだから認められるはず」が否定される場所と、「行政は悪くなさそうだから否定のはず」が肯定される場所。国家賠償の設計思想が被害者の救済と責任の合理的な配分であって、感情の追認ではないことが、両方向の裏切りを生みます。
両方向の裏切りを、理由ごと確認します
「気の毒でも否定」側。公園のテニスコートの審判台で幼児が亡くなった事故——結論は否定です。通常の用法に即しない行動の結果まで、設置管理者は責任を負いません(最判平5.3.30)。未改修河川の水害も、財政的・技術的制約をふまえた過渡的な安全性で足りるとされ、否定されました(大東水害・最判昭59.1.26)。感情はどちらの被害者にも同情しますが、要件(通常有すべき安全性の欠如)が線を引きます。
「けしからんとまでは言えなくても肯定」側。高知落石事件では、管理者の過失は立証されていません。それでも道路が通常有すべき安全性を欠いていた以上、責任は肯定され、「予算がない」という抗弁も排斥されました(最判昭45.8.20)。2条は無過失責任——「一生懸命やっていたなら仕方ない」という感情の側が誤答を作ります。
「けしからんのに軽い」側。うっかりミス(軽過失)の公務員に、国は求償できません(国賠法1条2項は故意・重過失限定)。「ミスした本人が払うべきだ」という感情は、公務の萎縮防止という制度の理由に譲ります。外国人被害者には相互の保証という条件もあります(6条)——「誰でも等しく救済」という感情への、もう1つの裏切りです。
「無過失責任=なんでも認められる」への振れすぎに注意です
2条の無過失責任を学ぶと、今度は「営造物の事故なら全部認められる」へ振れがちです。テニス審判台と大東水害は、まさにその振れすぎを試す判例でした。無過失責任は過失の立証が不要という意味であって、要件(瑕疵)の審査が不要という意味ではありません。
賠償の相談は感情の温度がいちばん高い相談です。依頼者の「気の毒」「けしからん」に共感しながら、判断の土俵は要件に置き直して見通しを伝える。この二層の応対ができるかどうかが、専門家への信頼を分けます。
裏切りは両方向——気の毒でも要件がなければ否定、過失がなくても瑕疵があれば肯定、けしからなくても軽過失なら求償なし。ドリルで感情に頷かない練習をしてください。